昭和42年8月22日 朝の御理解
昨日の朝の御理解覚えておられますでしょう。昨日の御理解は、神は吾が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じことぞや。そういう御教えを元にして御理解を頂きましたですね。ですから、それぞれの信心の過程と云うのが、おかげを受けなければならぬからお参りすると云う時代から段々自分を中心にしたところの信心から始まって、そして段々信心の有難さ、信心の潤いと云うものが段々出て來るようになると、雨の日に姉妹でお参りなされた話をしましたですね。今日はお湿りでもあるし、仕事も出来んから姉さん今日は一つ歩いて合楽までお参りさせて貰おうや、お参りさせて頂いたらゆっくり御理解でも頂いて、ゆっくり心行くまで御祈念でもさせて頂いておかげを頂こうと云うように、これは忙しければお参りが出来ない。そこんところを教祖のみ教えから云うと、病人やら又日傭取りは毎日お参りすることが出来ん。ですからどうもない時にしっかりいわば暇の時にしっかり信心の稽古をしておけよと云う、そのみ教えを私は信心の潤いと云う意味合でお話しましたね。
それから神は吾が本体の親と云うことを、信心はしかも親に孝行するも同じ事と仰っるのであるから、これは何が何でものこと、こと神様のことと云うことになって参りましたり、ことになりますと神様が中心になるのだと、朝の御教えでも容易う信心の初歩の者に対する御教え、そして段々本当のことが分からせて頂いて本当のことがなされて行くところの信心、そういう信心を昨日の朝は聞いて貰いましたですね。
例えば、大祭ならば御大祭がある。成程用事はある。けれども、用事なんか問題じゃない。たとえお店をしておるならば、今日は御大祭ぞと、今日はお店を閉めてでも、みんなでお参りさせて貰わなければと云う様に神様を中心とした信心。それが例えば、ほんなら昨日の御理解はそこんところを私は申してありませんでしたが、そういう様な信心のない者、信心しない者から見たらそげなまでせんでもよかろうと云うような信心が有難く出来るようになると云うことがです、信心の目指しであり、けれどそれがおかげ頂かんならんから、お店を閉めてからみんな参ろうと云ったようなことは、これは私はいけないと思う。そこんとこを今朝はそのところを申しませんでしたね。
お参りさえすればおかげを頂く。何をおいてもかにをおいても先ずは神、先ずは神様と云う神様を第一主義にしておるようであるけれども、それはほんとは神様第一主義ではない。それはおかげ第一主義。おかげ頂かんならんからそうしておるだけのこと。
そこで神様は吾が本体の親ぞと本当に分からなければいかん。
成程神様だなあ、親神様だなあと分かってこなければいかん。そこに信心は親に孝行するも同じことぞやとなってくるから、何をおいても親が喜ぶことならと云う信心になってくる。そこへんを昨日申しましたですね。昨日はそういう御理解でしたですね、そこで私は今日はそこんところをですね、成程親様だと、親神様だと体験させて貰う。その様々なおかげの中からです、こういう事があるんです。
昨日午前中私奉仕させて貰う時でしたか、十二時頃でしたか、北野の秋山さんの奥さんがお参りになりまして、昨日一昨日御承知のように久留米の佐田さんところの遷座祭がございました。お神様をお供いたしましてね、あちらでお祭りがございました。それで信心の同士の方が集まりまして有難いお祭りが奉仕された中に秋山さん達夫婦もやはりおかげを受けておられました。
昨日お参りして見えてから、先生、広大なおかげを頂きました。昨日おかげ頂きました、というて昨日からお届をされる中にです、実は主人も私も単車で参りました。そしてもう夜になりましたから、勿論ライトをつけなければなりません。ところがうっかりしましてライトをつけ忘れとった。ところが佐田さんの十字路のところを出ましたところに警察の方が立っておって調べがありました。そして、もしもしあなたの単車には明りがついていませんと注意をされた。大体いうたらまれでもまあ色々説論されたり科料となりかねないところをお繰合わせを頂いてそこを無事に難なく済ますことが出来た。ところが後から来よる主人が参りません。ひっくり返って参りましたら、主人が丁度警察につかまって調べられておるところでした。これは別に明りをつけておる訳でないのですけれど、免許証も持っておるから、色々調べられておりましたからそれを持って一緒に帰らせて頂ながら、神様のおかげを頂いて有難かった、おかげを頂いたと云うのである。それは何故かと云うと、もし私がですね、さあ、免許証を持っておるかと調べられたら、私は完全にライトをつけていないと同時に私はうかつにも免許証を忘れておりました。だから私には免許持っておるかを聞かずに、ただライトが消えておるということだけ注意を受けてやり過ごして頂いたけれど、主人の場合はそれを免許証を持っておるかと言うて免許証を調べられておった。主人はそれを持っておったから、なんのことはなしにおかげを頂いてから夫婦の者が無事に帰りついたということなんです。皆さんどう思われますか。おかげ広大なおかげを頂いた。皆さんもそう思われるでしょう、ねえ。奥さんが先にお前免許証を持っておるかと言われたら、完全に免許証は持たん、明りはつけていない、言うならばいよいよそこに科料なら科料と云うことになってくるに違いございません。より面倒になって來るのでございます。そこんところをみやすくしてもらい、見逃して貰ったのですから、やはり広大なおかげと云うてお礼を申し上げる訳なんです。皆さんもそう思われるでしょう。ですから私が申しました。秋山さんの信心がそれをおかげと云うておるようなことでは、おかげじゃあないと思いましたから、秋山さんそれはおかげじゃあないよと申しました。あんたは広大なおかげを頂いておるというけれども、それは成程おかげには違いないけれども、それは本当のおかげじゃあない。そういうことで私のうかつさ加減、私の実意丁寧の足りなさ加減と云うものを分からせて頂きましたと、云う時にそれは広大なおかげと云うことになって來るのだと私は申しました。そうでしょうが、今日は先生、免許証を忘れて来とりますけんで、ひっかからんことお願いします、と云うようなお願いをする方がよくあります。又免許証を取り上げられておってから、その間やっぱり車に乗るおやさまだな。どうぞよろしくお願いします。成程お願いは、お願いもしますけれども、そういうお願いでも聞いて下さるのは、どういう訳か間違っておっても実意丁寧を欠いでおっことを感じますてもです、そこんところを、おかっげを頂かせて下さるのはどういう訳か。それは親なればこそなんです。自分の子供に例えば、人から笑われるようなことが起こってまいりますとです、・・・・ ・?こげなことしてからから、というて、例えばそれを人に発表したりしゃせんでしょう。できることならば、自分だけの胸に治めてそれを隠してやりたいのが親心でしょうが。これがその息子になってくると、ちょっと珍しいことが起こってると、はあ、あそこの息子さんなこげんげなばい、これは親の場合でしても同じですね。親の非をです、人に発表するようなことは出来ません。それを隠してやりたいのが子供の心。親の心も同じこと。子供に不行き届きがある、子供に非があってもです、それを、ね、そうあることをだからどうぞ改めてもらいたい、そして人にはそういうことを聞かせたくないというのが私は親身の者の心じゃなかろうかとこう思うのです。そういう時になるほど親様だなーということを感じます。
皆さんがたとえて言うなら、こげなことではおかげ頂かんじゃないの、ということをですね、自分で心に思いながらです、神様にそのことをお詫びしていきよりますと、改まりができる。
それでも神様はやはりそれをカバーして下さるですね。おかげ下さるのは、親様だからなんです。だからそれで、何時までも続くという。只そこんところを神様が顔を立てて下さるとか、神様が見逃して下さるとかということが、あまりにも次々と繰り返されておるところから、私はおかげの頂けない、いやおかげを落とさなければならない、いやお気付けを頂かねばならん様な結果が生じてくるんだと云うことでございすま。ね、皆さん信心されてそこんとこを一つよく体験なされなければなりません。
極端なこれはお話でございますけれどもです、ね、大阪の玉水教会という大変ご比例が立つ教会でございますが、そこの先代の時分のまあ、ほんとかうそかしれませんけれどもこういう話が残っております。大晦日に一人の男がお願いに出てきた。
先生実は私は泥棒でございます。もうこの頃不景気でよか仕事が一つもできません。
いよいよ押し詰まって、いよいよ大晦日でございますから、この状態ではいわばよい正月を迎えることができない、というのである。ですけん今夜あたりよか仕事ができますようにお願いをしてくださいというてお願いに来たというのですね。
それで玉水の先生は大変な徳者でございますから、よし、それでは承知したと。
お届けさしてもらおう、その代わりびくびくしてでも行くな、もう神様のお許しを頂いておるのだから堂々とした御用をせにゃいかんぞと。その代わりにもう今度切りぞと教えておられますね。ですからその泥棒はこそこそ裏口から入らん。大きな風呂敷をもってある質屋さんかなんかの大きなお店に入った。そらもう大晦日の事ですから晩おそうまで蔵も開けっ放し、いろいろな整理があっておる訳です。それを大きな風呂敷をもって提灯をつけて這入って行った。ね、はいみなさんご苦労さん、というて風呂敷を広げてからどんどん仕事しよるところでみんな持てれるだけでもこうやって、みんな風呂敷に包んだ。
そしてご苦労さんでしたというて、大きな風呂敷を抱えてまた提灯をつけて正門から堂々と出て行ったということなんです。それとても親様なんだからですよ。そんな悪いことを神様がお取次ぎ、おかげ下さるということは。その代わりこれ一辺ぞ、これ切りぞということなんですよ。ね、それとよく似た話は沢山ございますよ。泥棒じゃなくても、ね。
道ならんことをやっておってもです、ね、そこんとこを神様がすがるとか悪いとかいうことによってそこを変わらして下さるんです。
ね、 神様が。けれどもそれは親なればこそ、いうならば今度一回ぎりだぞと云ったようなものがあるからなんです。お互いの信心を段々進めて参りまして私思うんですけれどもね、金光様の御信心は、私は昨日の御理解を聞いて貰った後に色々感じたんでけれど、金光様の御信心はここが本当に分かることだと思います。 これが分かったらもういい、お道の信心は有難うなり、いよいよお徳を受けておかげを受けて行くばかりだと思ったことは、昨日私が申します「神はわが本体の親ぞ 信心は親に孝行するもおなじことぞや」ということが分かること。五体、体を持って、心をもって体験の上になるほど神はわが本体の親でおありになるなということを分かることなの。
金光様の御信心の修行は、それを分かる為に信心をさせて貰う。おかげを受けると云うことに於いても、秋山かずえさんの場合は信心があるとこういう時にもこげなおかげを受けると云ういうのではなくてです、親があればこそ、そこを逃して貰うたりおかげを下さっておるのですから、と云うて信心しよりゃあ、どこにでんよかったり又は運転免許証持たずに車に乗ってよいと云うことは絶対にない。信心しておるなら尚更そこんところは実意丁寧やらなければいけないのだ。しかし万一の時には神様におすがりして行きゃあ、神様がそこんところを隠して下さるように、カバーして下さるんだと。それは親なればこそなんだ。これからこげなうかつなことがあっちゃならんぞと、神様が言うておられるのを、そこを気が付かずに只見逃して貰ったことがおかげだと云ったような頂き方では、おかげにゃあならんと云うこと。
本当に私はうかつでございますから、何時もこんな事を致します。かずえさん、あんた大体そげんところがうかるじゃんね。神はそういうお気付を下さったつよと申しました。ですから信心の過程に於いてそういう体験すると云うことが有難い。けれども、信心する時に何時もおかげ頂けると云う風に頂いては私は頂き間違いである。そういう時に分からせて頂いたことがおかげなの。
これもやっぱり、秋山さんのお話。丁度二、三人お参りがあった時に信心話をしておる。今日の御理解のどこがあんた一番有難いと思うかと、個人が集まって話てる中に、しかし信心ちゃ有難いですねと。もう例えて云うならば、先日から子供達どんが兄弟喧嘩しよった。それでそのお母さん黙って見ておってからね、もうやらんのやらんのしっかりやらんの、そればってん、あとはお互いすっきりしなけりゃいかんよと、子供達に言うた。そしたら長男の光幸さんが言うことが、そりゃあ僕は親んとをいつも見慣れているけんで喧嘩するばってん、あとはすっきりしとるもんの、というてから、そのあとあすっきり喧嘩をやめた。その時思うた。やっぱり親が信心をしてみせとかにゃいかん。夫婦喧嘩でもしておかにゃあいかん。夫婦喧嘩をしたら最後三、四日ものを言わん。そういう・・?もんじゃなか。うちのお父さんお母さん時にやらっしゃるけども、あとはすっきりしておることは有難いこと、ちゃんとそれを子供達が見ておる。秋山さんがそれを言われるんです。
ほんとに例えば夫婦喧嘩いっちょで、。信心でせにゃいけませんよ、と笑い話をしておられましたが、実にその通りなのですねえ。そういう風にすきっと出来ると云うことからして云うと私は金光様の御信心は何時も夫婦喧嘩してよいと云うことじゃあないと云うこと。それだけがおかげじゃあないと云うこと。初めにはそれであったけれども、この頃は有難い有難いでもう口いひとつ起こらん様になってきた時が本当のおかげなの。神様ちゃあ有難い。私どん夫婦喧嘩しとったっちゃ手本のような夫婦喧嘩しとるから、子供達が見習うてちゃんとそこんところをおかげ頂いとると、何時も子供達が兄弟喧嘩して、あとがすっきりしておると云うことではいかんでしょうが。有難いおかげなの、けれどもそれよりもっと有難いおかげを分からせて貰わなければならないということ。今日もやはり昨日と同じ「神は吾が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じことぞや」と。夫婦喧嘩をしてから神様が喜びなさる筈が無い。けれどもそのあとすっきりしてる具合いのところはなるほど、うちの子供達は信心頂いておると云うて神様は喜んで下さろうけれども、それを繰り返されたんでは、親に孝行するも同じことになってこない。ほんとあの人達は仲がええ、兄弟仲も睦まじい。夫婦仲も円満と云う時に私は本当の神様のお喜びがある。いわゆる親に孝行するも同じことが分かってくると、それがそのようなおかげが頂けるのだと私は思うのです。昨日もそういう御理解でした。今日のその「神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞ」と云うことをです、こういうところからも、なるほど親様だなあ、親神様だなあと云うことを分からせて頂くことじゃあないかと云うことを焦点にして今日はお話をさせて頂きましたですね。 どうぞ。